◎レコードの冒頭、針音と共に、ほのかなレモングラスの香りまで立ち上って来るようなタイ語のA-1「Prologue (M.C)」に導かれて始まる、A-2「Ramwong (4 Folkdances Of Thailand)」からして圧巻である。この1曲を耳にした瞬間、本盤を手にした喜びを確信するリスナーも多いはずだ。「PIMPATIPAN」というタイの軽音楽のレコードに収録されていたナンバー(現地のトラディショナルな舞曲をモダンなアレンジでメドレーにしたもの)を忠実に再現したというこの曲は、Macintosh SE30など当時のコンピューターによるシュミレーションを用いているとは思えないほどダイナミックな演奏の広がりと、鮮やかな色彩感覚を聴く者の中にもたらす。エキゾティックでエレガントで豪華絢爛な音のパノラマ、そして細心の配慮が行き届いた世界音楽漫遊の旅、『POSH』の出航を告げるにふさわしいトラックだ。
◎「POSH」=「Port Out Starboard Home(往路は左舷に、帰路は右舷に)」―19世紀イギリス、インド航路の客船に由来すると言われるこの言葉を制作上のキーワードとして、鈴木惣一朗がアルバム録音に取り組んでいた1988年は、折しもフランス人音楽プロデューサー、マルタン・メソニエがキング・サニー・アデなどを手掛け、ワールド・ミュージック・ブームの勃興が始まっていた時期。鈴木の音楽的支柱である恩師、細野晴臣もまたブームの中心地であった仏パリにおいてアラブのライ・ミュージックの衝撃を目の当たりにし、非西欧圏のポピュラー音楽や各地の民俗音楽に傾倒した活動を行っていた時期である(細野は89年発表のアルバム『omni sight seeing』でその時の体験を自身の作品に昇華している)。幼少期より慣れ親しみ自らの血肉となっていたロックやポップスなど20世紀的音楽の構造や括りにしばし別れを告げ、音楽をより自由に解放するための、イマジネーションの旅が始まっていた。
◎異民俗・異文化と接し、その音楽的要素を自らの作品に取り入れるため音楽家達によるアプローチの方法は様々あるが、鈴木は常に好奇心旺盛な“いち音楽リスナー”としての立ち位置を失わない。対象に対して物見遊山のようにカジュアルでフラットな姿勢でありながら、鈴木はその音の中に自己のアイデンティティーとの共通項を聴き取ろうとする。遠い異国の音色や響きは、鈴木のパーソナルでインティメイトな部分と共振して重なり合い、やがて鈴木自身の音楽として奏でられるのをリスナーは聴くことになる。そこには鈴木の音楽に対する幅広い博識、深い理解と愛情があることを感じさせられる。愛し憧れ抜いた音楽との距離の取り方、解釈の術(すべ)を鈴木は、学生時代に徹夜で繰り返し聴き続けるほど衝撃を受けたという細野のエキゾティックな傑作『泰安洋行』(1976年)から学んだ。アカデミックな楽理や分析だけでは取りこぼしてしまう音楽の匂い、空気感、音に込められた魂を愛で、受け止めたエネルギーを再び自らの作品にして敬愛する音楽家達のもとへデディケーションすること。鈴木は本盤『POSH』を完成させたことによって初めて、音楽家としてそれをやり遂げることが出来た、と語る。後年の作品―デヴィッド・バーンやヴァン・ダイク・パークスら海外のアーティスト達からも賛辞を贈られた、カントリーブルースやハワイアンなどのアメリカーナ的世界を展開した『マウンテン・バラッド』(1999年)、アルゼンチンやブラジル・ミナス地方の音楽家達へのシンパシーを音盤化した『シレンシオ(静寂)』(2010年)といったアルバムに至るまで、こうした鈴木の姿勢は一貫している。『POSH』はこれら後の名作群に繋がる、鈴木惣一朗という音楽家の「最初の代表作」と言えるのだ。
◎『POSH』のレコーディングに際し、若き音楽家 鈴木惣一朗の創作への情熱に火をつけたのは、ワールドスタンダード活動初期からコーラスとして参加していたメンバーMINA嬢からある日手渡された、1本のタイ土産のカセットテープがきっかけだったという。タイ王国のプミポン国王自身のペンによる“ロイヤル・メロディー”とも呼ばれる楽曲を収めたそのテープは、既成のロックやポップスの枠組みを越える新しいポップスの形を模索していた鈴木のイマジネーションを大いに羽ばたかせた。プミポンの名で親しまれ、タイの国民から絶大な支持と敬愛を集めたチャクリー王朝第9代「ラーマ9世」(2016年、惜しまれつつ逝去)は若き日、ヨーロッパ留学中に見聞きしたジャズに影響を受け、自身もまた音楽家としてバンド演奏や作曲活動を行った音楽好きの王様として知られた。王様は重鎮ベニー・グッドマンからも手ほどきを受けていたというエピソードを鈴木は知ることになる。アルバム『POSH』の中で鈴木は、「タイの王様の歌」と題されたA-3「雨の歌」、A-8「冬の風」の2曲を取り上げている。遠いアジアの国で生まれたメロディーでありながら、夕暮れの校舎から聞こえて来るような日本の子供達の唱歌にも似た郷愁。異国のエキゾティシズムはどこか人の心の懐かしさの琴線に触れる。タイと日本がひとつの音楽の中で繋がり溶け合う。「王様の歌」にインスパイアされる形で、鈴木は自身の新作を「タイの王様に捧げるアルバム」として制作することを決意する。
◎レコーディングを進めながら鈴木が夢見たのは、地理的距離も言葉の壁も越えて、音楽によって世界は繋がって行けるという、コスモポリタンでどこまでもピースフルなイメージだったに違いない。マーティン・デニーの和洋折衷エキゾティカ・マナーでアレンジされたA-4「Love Me Benten (Japanese Okesa-Beat)」、A-5「Dong・Feng・Jung」、B-5「Rush Hour In Bangkok」では、クール・ジャズと盆踊りと雅楽とディスコ?が仲良く手を繋いでラインダンスを踊っているようなイメージが浮かぶ。エキゾティック・サウンド成立の要素のひとつには、日本人のハワイ移民達によって持ち込まれた日本文化と西洋文化のミクスチャーがあったことも重要なファクターだろう。
◎A-6「Faith」では突然、ジョージ・マイケル87年当時のコンテンポラリーなヒット曲を取り上げているが、ボ・ディドリー風R&Rナンバーの原曲が、初期ピチカート・ファイヴのメンバーでもあった鴨宮諒によってハリウッド流オリエンタリズムを想起させる大胆な解釈で展開されている。遥か眼下を見下ろして偏西風に乗って大陸を横断して行くような、スケールの大きな心地良さが素晴らしい。B-3「Hamabe-No-Uta(浜辺の歌)」は、成田為三作曲による日本の唱歌が、当時鈴木らがフェイヴァリットに挙げていたヴァン・ダイク・パークスのアルバム『ジャンプ!』(1984年)にも通じる多幸感溢れる、ちょっとストレンジでモンドなアレンジを施された楽しいナンバーだ。
◎A-8「Singing Bamboos (Love-Dance)」では、フランス映画『ベティ・ブルー』(1987年日本公開)のサウンドトラック等で知られる音楽家ガブリエル・ヤーレの如き、鈴木のペンによるヨーロッパ的な陰りと官能を帯びた美しい旋律が圧巻。そして、続くB-1「Lull In A Rain」は、このアルバムのために細野晴臣が書き下ろしたピアノ曲の小品。アメリカ音楽のオーソリティーとも言うべき細野が、ヨーロッパの影響をその作風に見せていたノン・スタンダード/モナド・レーベル期のエッセンスのような美しい旋律である(制作中、「細野のショパン」と呼ばれていた)。細野ファンにとってはこの1曲が収録されているというだけでも本盤は充分に価値あるアルバムと言える。
◎B-5「The March Of Siamese Children」は、1956年の20世紀フォックス映画「王様と私」からのナンバー(映画ではタイ国王ラーマ4世をモデルにしたと言われる王様とアメリカ人女性家庭教師との交流が描かれた)。古い映画館の銀幕から聞こえてくるような音響とアレンジは、EXPO等の活動で知られる山口優(マニュアル・オブ・エラーズ)。B-4「Here Is Happiness」は、実に鈴木らしい牧歌的なメロディーが聴けるが、パンフルートによる音色が不思議な浮遊感を醸し出す。
◎B-6「A World Of Whisper」では、ワールドスタンダードの『POSH』版とも言えそうなアレンジを聴くことが出来る。マーティン・デニー的アンサンブルを再構築し、新しい音楽を生み出そうという意欲が感じられる。本作の録音にもまたデニーのエキゾティック・サウンド同様、多種多様な民族楽器が持ち込まれ、ユニークで温かみのある音像を生み出すのに貢献している。アルバムが録音されたクラウン・スタジオは細野が『泰安洋行』の制作に使用した場所。鈴木がスタジオに入った時、そこにはかつて細野が使ったマリンバなどがそのまま置かれていたという。同じ楽器を用いて奏でられる『泰安洋行』と『POSH』は、だから、10歳以上年の離れた兄弟のようなものかもしれない。
◎再びタイ語によるB-7「EPILOGUE (M?C)」で本盤は締め括られる(『POSH』の見事なアルバム構成は、小西康陽も影響を受けたと当時発言している)。そして、レコーディングの最終段階で収録されたB-8「Flower Of Japan(日本の花)」と題された、楚々とした鈴木によるギターインストの美しさ。どこか昭和のテレビのブラウン管やラジオ放送終了後に流れてくるような、静かなムードを感じる(鈴木は本曲の録音に際し、「“北の国から”をやります」と発言したという)。
細野がかつてトロピカル3部作において、西洋から見た東洋人像を演じることによって東京という都市の特殊性を面白がったように、あるいはヴァン・ダイクが『ディスカヴァー・アメリカ』において、トリニダード・トバゴの黒人たちのカリプソ・ミュージックの中に、アメリカ人が失いつつあったヨーロッパ起源の美しいクラシック音楽のメロディーを見出したように―果たして、鈴木は本盤『POSH』の旅の中で何を見つけたのだろうか?それは、鈴木少年がロックやポップスに耽溺するより以前に体験していた“音の記憶”を想い起させる体験ではなかったかと思う。1959年生まれの鈴木が幼少期を過ごした昭和30年代は、商店街のスピーカーからスリー・サンズを始めとするラウンジ音楽が聞こえていたし、テレビのブラウン管からは「シャボン玉ホリデー」。番組ではラテン音楽やホーギーカーマイケル、エキゾティックな音楽だって坂本九やザ・ピーナッツらによって普通に紹介され歌われていた。“遠い異国”は身近な“お茶の間”にも存在していたのだ。『POSH』の楽曲に共通して流れる、ストレンジでありながらどこか懐かしい雰囲気は、こうした鈴木が知らずと体験していた、日本人がかつて夢見た異国の記憶に訴えかけてくるようだ。マーティン・デニーに代表されるエキゾティック・サウンドのフォロワーは90年代のラウンジ・ブーム以降も世界中に数多く存在する。日本でも80年代に活動した中西俊夫らによる「MELON」などが有名だが、本盤『POSH』が時代を越えて今なお心ある音楽ファンに愛され続けている魅力のひとつには、この日本的な懐かしさがあるように思う。世界音楽の旅から一周して鈴木が辿り着いたのは、まだ幼い鈴木が生きていた「三丁目の夕日」の世界。その世界を存分に堪能するには、このモノラル・ミックスのアナログ盤こそ最適である。
◎本盤『POSH』への参加ミュージシャンは鈴木を始め、エヴリシング・プレイというユニットのもう一方の片腕、美島豊明(後にフリッパーズ・ギター、現コーネリアスのマニュピレーターとして活躍)らを合わせて、総勢20名を越える。鈴木の頭の中のイメージを具現化するため、多くの優秀な音楽家・演奏家達が集った。本盤にシロフォンで参加した故・蓮見重臣は自身のユニット「Pacific231」を結成、架空のハワイ日系アメリカ人作曲家をコンセプトにした『MIYASHIRO』(1998年)を遺すことになるが、こちらも『POSH』の系譜に繋がるような、エキゾティカと日本的情緒をリンクさせた傑作である。
◎『POSH』がステレオ版CDとしてリリースされた翌年の92年、鈴木はインド洋に浮かぶ島「ザンジバル」のターラブ音楽のグループ、「イリアスのきらめく星」をプロデュースしている(『イリアスのきらめく星〜ザ・ミュージック・オブ・ザンジバル』)。そのアルバムの最後に収められたのは、日本のポピュラー音楽「こんにちは赤ちゃん」であった。昭和38年に中村八大作曲、梓みちよが歌いヒットさせたナンバーだが、ザンジバルから遥々日本へやって来た彼らの耳には、自分達の国の音楽にとても似ている、と気に入って選んだのがこの歌であったという。「音楽で世界は繋がる。」―鈴木の夢見たイメージを象徴するような、良いエピソードだと思う。
Text by 鍋谷 政貴
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